というわけで、会期終了直前に駆け込み鑑賞してきました。
六本木森美術館で開催されていた「アイ・ウェイウェイ展−何に因って?」
これ7月下旬からやっていたのに、まだまだ終わらないと思っているうちに夏が過ぎて冬が目の前。。。(最近こういうことがやたらと多い)
一昨年ドイツのカッセルで開催された「ドクメンタ」という歴史ある国際美術展で一躍注目を浴びた中国の現代アーティストです。北京オリンピックのスタジアム「鳥の巣」の設計にコラボ参加したことでも話題になりました。
いやはや、これは文句なくすごい!
今年のカレンダーはまだあと2枚(もうあと2枚?!)残っているけれど
多分今年観た展覧会のナンバーワンですっっ!←コーフン中
さっくり解説しますと、60年代に美術界を席巻したムーヴメントに「ミニマル・アート」というのがありまして、これが何かといえば
視覚芸術におけるミニマリズム(Minimalism)であり、装飾的・説明的な部分をできるだけ削ぎ落とし、シンプルな形と色を使用して表現する彫刻や絵画(Wikipediaより引用)なわけです。
つまりこんなのだったり。

(↑ミニマル・アートの代表的作家ドナルド・ジャッドの作品)
で、アイ・ウェイウェイもまたその流れを汲むというか、
1m立方だとかの基本的な数値の単位にこだわった作品を作っています。
「1m立方のテーブル」
「1トンのお茶」サイズはもちろん1m立方。(笑)

雲南省のプーアール茶ですってよ、おくさま。
100gで6000円の高級茶だったらいったいいくら?!
会場に入った途端に鼻先をくすぐった、なんともいえないいい匂いの正体はこれだったのか。
先に進むと匂いはさらに濃厚になります。
「茶の家」
これはプーアール茶を20cm立方の塊にしたものを積み重ねて作られているの。
地面も茶葉。びっしりと茶葉。
ジャッドらミニマル・アーティストの目指すところは作品の無機質性です。彼らの作品コンセプトを際立たせるためには「人間臭さ」は排除されねばなりませんでした。だから素材にはあえて金属やベニヤなどの工業素材を規格そのままで使ったり。
アイ・ウェイウェイの作品はそこが大きく違う。非常に有機的で、なんというか素材の息づかいが伝わってくるような魅力があります。私はこっちのほうがずっと好き。いや、ジャッドはジャッドでもちろん凄いんだけど。
そして
「一杯の真珠」
中国で養殖された真珠がですね、でっかい器にてんこ盛りでしてよ、おくさま!
しかしここまで無造作にがっつり見せられると、なんだかもう別物です。
ネックレスになっていれば「きゃあ♪」なのですが、なんですかこの圧倒的な無造作感。
これをやられたら「もうお腹いっぱいです」と降参するしかないような。
そ、あの芥川龍之介の『芋粥』の主人公の気持ちが少しわかった気がしました。(笑)
いやぁ、それにしても美しい。
真珠としての美しさよりも、アート作品としての美しさが迫ってきます。
土くれや木っ端やコンクリを「美しい」と感じさせるのもアート。
それが真珠であろうと同じこと。でも真珠ですよ、おくさま!!(しつこい)
次の展示室では天井いっぱいにとぐろをまく蛇。

この蛇は中国の子どもの通学カバンで出来ています。
四川大地震で亡くなった子ども達へのレクイエム的作品だそうです。
「すべてを懸けて守ろうとしてきた存在が、永久に奪われてしまった」
作品ガイドから流れてきた、子を失った親の嘆きが胸を刺しました。
アイ・ウェイウェイは作品の素材として、好んで歴史的・伝統的な価値のあるものを用います。
さらにジャッドらがしたように、彼もまた自分の手で製作に携わることなく外注に出すのですが、それは「工場」ではなく、どちらかといえば「工房」。
クギを一切使わない「組み木」という、職人の伝統的手法によって形作られるのです。
たとえば、こんなふうに。

大量の木材(取り壊された古い寺院ですって)が複雑に組み合わされている様子がわかりますか?
全体を上から見ると、中国の形になっているんですって。
そしてこれも古い箪笥。花梨材って綺麗〜。作品名は
「月の箪笥」
真ん中に穴ぼこが空けられて家具としての用をなさなくなっていますけど、いいの。
この箪笥の周りをゆっくりと回ると、穴ぼこの形が月の満ち欠けのように変化します。
穴から向こうを覗くとこんな感じ。

箪笥の中に宇宙を思わせる壮大なスケール感があって、好きな作品でした。
もひとつオマケに、家具としての用をなさないテーブル。かっくいー!

長くなってすみませんね。でも面白い作品ばっかりで省けないのだっ。

これは中国の大手自転車ブランド、その名も「永久」社のチャリンコを繋げた作品。すごい綺麗。
このあたりまでくると「コンセプトが〜」とかどうでもよくなってきちゃいました。
ここまで美しい構造物を作ってくれたら、もういいよって。

ただの彩色した壺に見えますか?見えますね。
でもこれは後期石器時代の、考古学的にも価値あるものざます。
塗ってしまえば、ただの壺。アイおじさんはそう言いたいに違いない。(きめつけ)
撮らなかったのですが、この壺の脇の壁にはアイおじさんのどでかい写真。
写真の彼が何をしているかと言えば、
1枚目:しらばっくれた顔をして、手にでかい壺をもっている
2枚目:しらばっくれた顔をして、壺から手を離している(壺落下中)
3枚目:しらばっくれた顔をして、足元で粉々になった壺を見ようともしない
割れてしまえば、ただの壺。しかしこの壺ってば漢王朝の貴重品ですってよ!!
ひー!なんちゅうことをするんじゃ、このオッサン。
私の中でアイ・ウェイウェイという作家のイメージがだんだん形を成してきました。
「既成の価値観の破壊と新たな価値の創造」
・・・・・めっちゃありふれたフレーズやんけ。orz
でも!でもね、それをここまで美しく刺激的に面白く表現する作家であれば、私にとっては文句なく花丸ですのよ。
ちょっと気取って言えば、価値を破壊してみせられることで、モノと社会とのかかわり、モノ自体の本質を改めて考えさせられるのがアイおじさんのゲージツです。そして「破壊の快感」の甘美な共有。(←気取ってもこの程度か>わし)
清時代の寺院や工芸品で構成されたインスタレーション。

コレ欲しい。家の中にあったらきっと楽しい。
こういう内装の居酒屋開きたい。(妄想中)
さて、最後の展示室に向かう通路には、椅子が並べてあります。

これまた清時代の椅子。壁面には作家のメッセージが示されていて
このちょっとした空間が次の展示へのイントロダクションになっているんですね。
最後の展示はアイ・ウェイウェイが2007年のドクメンタで行ったプロジェクト(=作品?)を記録したドキュメンタリーフィルムでした。
その作品のタイトルは
「童話」ドクメンタが開催されるドイツの都市カッセルは、かのグリム兄弟の町でもあるのです。
童話の内容はといえば「1001人の中国人をカッセルに連れて行く」。
生まれてこのかた自分の村から出たことのない人、
パスポートを取る前にまず自分の名前を決める必要があった少数民族の女性。
プロジェクト遂行のためのさまざまな壁が立ちはだかりますが、根気よく説明し、説得し、ついに一行はカッセルへと旅立ちます。体験し、学び、そして見られるために。
そう、彼らは「作品として見られる存在」となるのです。1001脚の清時代の椅子と共に。
ーーーこれは作品ですか?
ーーー形ある作品を作る人は、ここ(カッセル)にはたくさんいるよ。ひとりくらい作品を作らなくったっていいんじゃない?インタビューのワンシーン。この部分に妙にウケてしまいました。こういうへそ曲がりオヤジって私のタイプだったりして。(笑)
1001人の中国人がカッセルへ行く、これは芸術なのか?という問い。
彼らはただの見せ物なのではないか?という疑問。
「芸術的行為」って、なに?
しかし間違いなく言えるのは、作品「童話」はとんでもなく刺激的な試みだということ。
面白いことやってやろう、何かを動かしてやろう。作家の心意気は確かに成功していたかと。
1001人の中国人たちは芸術の祝祭空間の中で人々とふれあい、有形無形のメッセージを伝え、受け取り、動かしていました。「何か」を。
うん、私がアイ・ウェイウェイの世界に共振するのは、彼自身が「面白がって」芸術活動をしているからなのだと思います。小難しいコンセプトもいいけど、苦しんで作品を生み出すのもいいけど、それよりなにより「面白がって」るのがいちばん「面白い」。
一応断っておきますけど、アイ・ウェイウェイって結構深遠なコンセプトを持っていたりするらしいんですわ。でもそういうのをありがたがって、眉根を寄せて鑑賞するのは私のスタイルじゃないのかも。
もちろん、コンセプトを理解しているからこその面白味は否定しません。この展覧会にしたってアイ・ウェイウェイがどういう作家で、どんな意図を持って製作活動を行っているかの理解があって、その上で楽しんでいる私がいるから。でもでもやっぱり「作り手のワクワク感が受け手のワクワク感を誘導する」んだと思うの。
正直言うとドキュメンタリーフィルムってあんまり好きじゃないのですが、この記録映像は途中で席を立てませんでした。たっぷり2時間以上も。だって面白過ぎちゃって〜。
「オレの仔馬の世話をよろしく頼むぞ〜」と言いながら、山村から旅立つおじさんの姿。
嵐で倒壊した自分の作品を観て「すばらしい!私が作っただけではこんなに面白い作品にはならなかった。これはこのままにしておこう♪」と大喜びするアイ・ウェイウェイの姿。
さまざまなディテールの、作り物でない面白さと説得力。
そーそー、このフィルムを観るための椅子は、カッセルに行った1001脚の椅子の一部(200くらいあった?)でした。
気がつけば、ああ、梅子がとっくに帰宅している時間じゃないか。
つか、普段ならとっくに晩ご飯食べ終わってる時間じゃないか。わはは。
私ってば、梅子が中学生になってから帰宅が遅くなることが多くなったわ。
わはは、わはは。
そしてひそそかの秋の夜遊びは、まだまだ続くのであった。
オープニングパーティでもないのにバシバシ写真を撮っているそのワケは・・・